稜線の誘惑と、春の罠
高低差の少ない、なだらかな尾根歩き。視界を遮るものはなく、右も左も丹沢の山々が織りなすパノラマが広がっている。さっきまでの激しい鼓動もようやく静まり、乾いた風が火照った身体を心地よく撫でていく。これこそが、稜線歩きの醍醐味。
だが、山は一面の表情だけを見せはしない。登ってきた南斜面にはほとんど見られなかった残雪が、北側の影や窪みには、しぶとく、そしてたっぷりと居座っていた。
春の陽気に緩み、中途半端に溶けかけた雪は、不用意な一歩を容易く裏切る。「おっと……」。アイゼンを出すほどではないが、油断は禁物だ。滑落するような崖ではないにせよ、ここで無様に尻餅をついて、せっかく乾き始めたウェアを濡らすのは真っ平ご免だ。
僕は重心を低く保ち、雪の踏み跡を慎重に選びながら、一歩一歩、確かめるように下りの路を刻んでいった。

雪の残る慎重な下りを一段落させると、いよいよそこは空の領分だった。視界を遮るものは何ひとつない。 稜線——山々の背骨をなぞるように続く、自由な一本道。そこを歩く僕は、いま確実に、下界の喧騒からも、自分を縛り付けていた日常からも解き放たれていた。
時折、思い出したかのように吹きつける強風が、ウェアの中に溜まった熱を容赦なくさらっていく。それが、火照った身体には何よりの贅沢な報酬だ。冷たい風に身を晒しながら、肺いっぱいに澄んだ空気を吸い込む。
見上げれば、吸い込まれそうなほどに深く、抜けるような蒼。 この雲ひとつない景色の中、一歩進むごとに自分の魂が軽くなっていくのを感じる。気分はまさに最高潮だ。
「ああ、本当によかった……」
僕は独り、相模湾から吹き上げる風を全身で受け止めながら、この最高に贅沢な寄り道を噛み締めていた。



《11:50》金冷やし
のんびりと、そして贅沢に稜線をなぞる時間は、まるで自分へのご褒美のようでした。11:15、小丸。そして11:40、大丸。
時計の針が進むごとに、僕は丹沢の深奥へと溶け込んでいく。このあたりの稜線歩きは、まさに「極楽」そのもの。空の色を反射する残雪と、遠くに霞む相模湾を眺めながら、歩みを進めた。
だが、そんな時間は、「金冷し」の分岐点で唐突に終わりを告げる。
ここは、大倉尾根ルートとの合流地点だ。それまでの静寂が嘘のように、メインストリートを登ってきたハイカーたちの熱気と混じり合う。道標を見れば、塔ノ岳山頂まで残り600m。
ふと、現在の標高を確認してみる。ここは1,370m。目指す山頂は1,490m。つまり、残りわずか600mの距離で、120mもの高低差を垂直にねじ伏せなければならないということだ。
「……マジか」
計算するんじゃなかった、という後悔が胸をかすめる。
見上げる先には、それまでの穏やかな稜線とは打って変わった、容赦のない「壁」のような急登が立ちはだかっていた。 僕は一度深く息を吐き、最後にして最大の難所へと視線を据えた。



《12:10》塔ノ岳山頂到着
金冷しからの登りは、もはや「歩行」というよりは、自分自身の「根性」との泥臭い対話だった。
最終試練、そして「空」への到達
特に山頂直下、天へと突き上げるように続くあの階段は、最後の試練だ。 一歩、また一歩。鉛のように重くなった足を無理やり引き揚げ、肺が焼けるような感覚を覚えながら、息も絶え絶えに高度を削っていく。視界の端で揺れる自分の影さえも重たく感じ、ただただ、一段先の木材だけを見つめて身体を押し上げた。
そして、その瞬間は唐突に訪れた。視界を遮るものが消え、足元が平坦な土へと変わる。標高1,491m、塔ノ岳山頂だ。
鍋割山からの眺望も確かに一級品だった。だが、そこからさらに約200mほど天に近づいたこの場所からの景色は、やはり格が違った。時折、谷底から猛烈な勢いで吹き上げてくる突風が、ウェアに染み込んだ重たい汗と、澱んでいた疲れを一気に彼方へと吹き飛ばしてくれる。その冷たさが、今は何よりの報酬だ。
「……よしっ」
心の底から叫び出したいような、震えるほどの達成感。けれど、そこは大人だ。周囲の静かな山歩きを乱すわけにはいかない。僕はその咆哮を喉の奥でグッと堪え、代わりに大きく、深く、この冷たく清らかな空気を胸の奥まで吸い込んだ。
保温ボトルから注いだ熱いお茶と、コンビニで買ってきた、おにぎり。絶景という名の最高のおかずを前にして、それを一口ずつゆっくりと噛み締める。温かな茶が喉を通るたびに、身体の芯が解けていくのがわかる。



《12:10》塔ノ岳山頂出発
塔ノ岳山頂を辞し、下山へと舵を切る。選んだのは、丹沢でもっとも有名な一本道――大倉尾根。通称「バカ尾根」。麓までバカ正直なまでの急勾配で突き抜けているからだ。だが、下り始めの景色は、そんな悪名を忘れさせるほどに雄大だった。
目の前には、春の陽光にキラキラと反射する相模湾。そして、箱庭のように整然と広がる秦野の街並み。
「下界へ向かって飛び込んでいく」
そんな錯覚を覚えるほどの開放感に包まれながら、僕は重力を味方につけてテンポよく足を運んだ。
13:05 花立山荘、13:35 堀山の家、13:50 駒止茶屋を順調に通過して高度を下げていく。



《14:50》大倉バス停到着
長い旅路の終着点であるロータリーへと滑り込む。
まずはレストハウス横のトイレの前に設置されている水道へと向かい、靴の溝に詰まった丹沢の土を洗い落とす。
今日のハイライトは、間違いなく鍋割山から塔ノ岳へと続く、あの稜線歩きだった。時折吹き抜ける冷たい風を全身に浴び、誰に急かされることもなく、ただ自然の一部としてそこにある路を辿る。ザックをトランクに放り込み、運転席のシートに深く腰を下ろす。僕はゆっくりと車を走らせる。フロントガラス越しに遠ざかっていく山並みを眺めながら家路についた。

【鍋割山〜丹沢最高峰・蛭ヶ岳ヘ。山小屋泊まりの一泊二日】はこちら
2
コメント