丹沢の中でも、最も展望が開け、最も起伏に富んだ表尾根。
今回は菩提峠(ぼだいとうげ)を起点に、いくつもの峰を越えて塔ノ岳を目指す。往復約12.5km、獲得標高1,347m。
初秋の光、菩提峠にて
午前6時を回ったばかりの菩提峠駐車場。10月の冷ややかな風が頬を叩いた。

車を降り、ザックを背負う。距離12.5km。 数字にすればそれだけのことだが、ここから塔ノ岳までの道には、二ノ塔、三ノ塔、烏尾、行者、新大日……と、峰の繋がりが待っている。まずは、最初のチェックポイント「二ノ塔」を目指して。
早春の静寂の中、二ノ塔へ
06:37 菩提峠駐車場
午前6時を回り、菩提峠の駐車場を出発する。まずは林道を歩き出す。まだ太陽は山の向こう側で、森の中は静寂に包まれている。登山靴の砂利を踏む音だけが、朝の空気に規則正しく響く。

0.7kmほど進むと、林道が交差する場所に到着した。ここが尾根道への取り付き点。道標が「三ノ塔1.9km、塔ノ岳6.0km」と指し示している。

僕は林道から逸れ、少し傾斜を増した登山道へと足を踏み入れた。

森の中を這うように続く登山道を進む。木々の隙間から、少しずつ太陽が顔を出し始めた。初秋の陽光は優しく、それまでの薄暗かった森を瑞々しく彩る。冷たい空気に差し込む一筋の光が、身体の中から元気を呼び覚ましてくれるような気がする。

二ノ塔への登りは、想像以上に骨が折れる。 整備された長い木段が一筋に続き、一段登るごとに息が切れる。木段を過ぎると、今度は岩が露出した急登が現れた。僕はただ黙々と、自分のペースを崩さないように登り続けた。

身体が完全に温まり、汗が滲み始める。それでも、時折立ち止まっては、後ろから昇りくる太陽の光を浴び、再び前を向いて歩き続けた。
07:17 二ノ塔山頂(1144m)
菩提峠からから40分。最初のピーク、二ノ塔に到着した。山頂に立つと、ようやく視界が開け、それまでの森の中の苦闘が嘘のように素晴らしい展望が待っていた。 何よりも目を奪われるのは、彼方の峰々に、端正な姿で浮かぶ富士山だ。

富士山の手前には、いくつもの峰々が重なり、表尾根の壮大なスケールを感じさせてくれる。
僕はザックを下ろさず、ただその場所に立ち尽くし、冷たい空気をたっぷりと吸い込んだ。さあ、次は「三ノ塔」が待っている。
三ノ塔へ
07:20 二ノ塔(標高1,144m)を出発
二ノ塔で富士を拝み、息を整えたら次なる目的地、三ノ塔へと向かう。この二つの峰は目と鼻の先だ。一度ぐっと下って、再び登り返す。距離にして約0.5km、時間にしてわずか15分の短い稜線歩きだ。

10月の冷ややかな空気のなか、木道を一歩一歩踏みしめる。視界を遮る高い木も少なく、景色を楽しみながらゆっくりと進む。

07:32 三ノ塔(標高1,205m)
二ノ塔から15分。息を弾ませて登りきると、そこは表尾を一望できる三ノ塔の山頂だ。
ここには、三ノ塔休憩所がある。荒天時には登山者の命を守る避難小屋。

三ノ塔からの展望は、まさにパノラマだ。西を向けば、堂々とそびえる富士山。その足元には、真っ白な雲が海のように広がり、西丹沢の尾根が突き出している。

小屋の周りでは、登山者たちが腰を下ろし、この景色に浸りながらコーヒーを啜っている。僕もここで一杯といきたいところだが、まだ先は長い。
視線の先には、「烏尾山」と、その向こうに「塔ノ岳」が待ち構えている。ここからは、鎖場や細尾根が続くスリリングな道へと入っていく。
烏尾山から行者ヶ岳、鎖場が続く
07:32 三ノ塔(1,205m)を出発
三ノ塔の広い山頂を後にすると、道は一変する。ここからは表尾根の核心部だ。まずは目の前の谷へと吸い込まれるような急坂を一気に下っていく。
足元はガレており、一歩踏み出すごとに小石が音を立てて転がっていく。重力に身を任せつつも、膝への衝撃を逃がしながら慎重に高度を下げていくと、鞍部の先に特徴的な姿が見えてきた。

08:00 烏尾山(標高1,136m)
三ノ塔から下りを経て約30分。標高を少し下げた地点にあるのが烏尾山(からすおやま)。 ここには、三角屋根が印象的な「烏尾山荘」が佇んでいる。

山頂にはバイオトイレも整備されており、稜線歩きの貴重な休憩ポイントとなっている。振り返れば、先ほどまでいた三ノ塔が巨大な壁のようにそびえ立ち、行く先にはこれから越えるべき峰々が鋭い稜線を描いている。

08:18 行者ヶ岳
烏尾山を出て15分ほど、細い尾根道を辿っていくと行者ヶ岳(ぎょうじゃがたけ)に到着した。表尾根きっての難所がここから始まる。目の前に現れたのは、太い鎖が垂れ下がっている鎖場。




08:35 政次郎ノ頭(標高1,209m)
鎖場を切り抜け、再び息を切らして斜面を詰めると、政次郎ノ頭(まさじろうのかしら)へと辿り着いた。ようやく一息つける場所だ。 ここから塔ノ岳の本丸まではあと少し。

次は「新大日」への長い登り返しが待っている。
稜線のアップダウン ― 新大日から木ノ又大日へ
09:00 新大日(標高1,340m)
政次郎ノ頭からさらに木段を登り詰め、ようやく新大日(しんだいにち)の山頂に立った。かつては茶屋があったこの場所も、今は茶屋跡として静かな平地が広がるのみ。

ここからは塔ノ岳の本峰がより間近に、より大きく迫ってくる。10月の空の色はさらに深くなり、秋の陽光が乾いた草地を黄金色に照らしている。
09:08 木ノ又小屋
新大日を過ぎると、道は一旦穏やかな下りとなり、静かな森のなかへと導かれる。その木立のなかに、ひっそりと佇むのが木ノ又小屋だ。

09:10 木ノ又大日
小屋からすぐの登り返しを詰めると、木ノ又大日(きのまただいにち)のピークに到着した。
道標を確認する。「塔ノ岳 0.7km」。ついに、ゴールの数字が1キロを切った。

塔ノ岳へ続く最後の登り
09:10 木ノ又大日(1,396m)を出発
足元には、美しい木道。10月の乾いた風が通り抜け、草木は冬支度を始めたかのように淡い茶褐色に染まっている。振り返ればこれまで歩いてきた尾根が指先のように細く見え、自分がどれほどの高みにまで来たかを実感させてくれる。

ふと目を落とせば、切り立った崖の下に吸い込まれるような深い谷。その先には、秦野の街並みが広がっている。この圧倒的な高度感こそ、表尾根の醍醐味。

塔ノ岳山頂への最後の急登
見上げれば、青空を突き刺すように塔ノ岳の山頂がそびえ立っている。その頂には、目指す尊仏山荘の影が小さく見えた。

ザックの重みが肩に食い込み、呼吸は荒くなる。それでも、一歩踏み出すごとに尊仏山荘が大きく、鮮明になっていく。岩を掴み、浮き石を避け、ただひたすらに「上」だけを見て身体を押し上げていく。


09:31 塔ノ岳山頂(標高1,491m)到着
最後の一歩を蹴り出し、平坦な地面へと足を踏み入れる。

「……着いた」

菩提峠を出発して約3時間。ついに、表尾根の終着点であり、丹沢の主峰のひとつ・塔ノ岳(とうのだけ)の山頂に立った。荒い息を整えながら、目の前に広がる青い空と、遥か彼方まで続く嶺々の波を眺めた。


ここで少し長い休息を取ろう。10月の山頂は、風が吹けば指先が凍えるほど冷える。僕は賑わう広場の一角、岩が風除けになりそうな場所を見つけて腰を下ろした。
ザックから取り出したのは、コンビニで買ったおにぎりと、バーナーで温めたお湯で作った熱いスープだ。
まずは、少し冷たくなったおにぎりにかぶりつく。 米の甘みと、汗をかいた身体に染み渡る海苔の塩気。噛みしめるほどに、表尾根のアップダウンで使い果たした力が身体の隅々にまで戻ってくるような気がする。
そして、スープ。 白い湯気が秋の冷たい風に流されていく。ふーふーと息を吹きかけ、一口。「……あぁ、生き返る」 熱い液体が喉を通り、胃に落ちていくたび、強張っていた指先までじんわりと温まっていく。
帰路
09:59 塔ノ岳 出発 賑わう山頂を後にし、今来た道を戻り始める。下山はただ標高を下げるだけではない。疲労が溜まり始めた脚で、再びあのアップダウンを刻み直す。
10:16 木ノ又大日 稜線を戻る。陽は高く上がり、山肌の凹凸が朝よりもくっきりと浮き出ている。
10:30 新大日 ここから傾斜が一段と増す。ストックを突き、膝への衝撃を逃がしながら一歩一歩下る。
10:42 政次郎ノ頭 尾根の分岐を通過。再びの鎖場。
10:56 行者ヶ岳 鎖場の通過。下りの鎖場は登りよりも視界が高く、神経を使う。岩のスタンスを慎重に選び、腕の力だけでなく全身でバランスを取りながら、10月の冷たい岩肌を下っていく。
11:19 烏尾山 三角屋根の小屋まで戻ってきた。振り返れば、先ほどまでいた塔ノ岳が遠ざかっている。
11:56 三ノ塔 最後の上り返しを経て、広い山頂へ。ここから先は、二ノ塔へ向けて最後の稜線歩きだ。
12:13 二ノ塔 最後のチェックポイントを通過。あとは駐車場へと続く森の中の急坂を下るだけだ。
13:04 菩提峠駐車場 帰着

朝、青白い静寂に包まれていたあの駐車場に、ついに帰り着いた。
12.5kmの道のり、獲得標高1,347m。
きつく締めていた登山靴を脱ぎ、解放された足でゆっくりと地面を踏みしめる。
足裏から伝わるずっしりとした重だるさは、今日一日、丹沢の嶺々を自分の足で渡り歩いてきたのだという、静かな、しかし確かな充足感だった。
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