三月の三連休、快晴。大勢の登山客で賑わう大倉を起点に、四十八瀬川のせせらぎ、二俣からの急登、後沢乗越を経て、鍋割山頂の名物「鍋焼きうどん」を目指す。下山は大倉尾根を辿り、消失した山小屋に想いを馳せ、最後は酸っぱい梅ジュースで締める。丹沢の春を凝縮した日帰り登山。

07:22 大倉:春を満喫する人々の熱気
三月の三連休、丹沢。
春の陽気に誘われて、僕は再び大倉の地に立っていた。
小田急・渋沢駅北口。そこには、僕の想像を遥かに超える凄まじい行列が伸びていた。
6時台のバスは、すでに登山客で満杯。立錐の余地もない車内は、アウトドアウェアに身を包んだ登山客たちの期待感で膨れ上がっている。結局、僕はそのバスに乗り込むことができず、一台やり過ごして次のバスを待つことにした。
07:22 大倉バス停
15分ほどの揺れののち降り立った瞬間、ひんやりとした朝の空気の中に、確かな春の匂いを感じた。

誰もがそれぞれの目的地を目指して、一斉に歩き出す。僕はその喧騒を少しだけ追い越すようにして、大倉尾根へ向かう主流の列から離れ、鍋割山方面へと足を進めた。

しばらくは、のどかな畑風景の中を抜けていく穏やかな道だ。春の柔らかな光を浴びた土の匂いを感じながら、まずは四十八瀬川(しじゅうはっせがわ)のほとりにある登山口を目指した。
せせらぎの散歩と二俣からの関門
最初の1時間は、いわば身体を山に馴染ませるためのウォーミングアップだ。四十八瀬川の清流に沿って、砂利道をのんびりと行く。三月の柔らかな光が水面に弾け、どこか遠くで鳥の声がする。

しかし、そんな穏やかな散歩は二俣(ふたまた)で終わりを告げる。ここには、鍋割山荘で使われる水を登山者がボランティアで運ぶ歩荷のポイントがある。ポリタンクが並ぶ光景は丹沢の風物詩だが、ここを過ぎれば登山道は一気にその牙を剥く。


09:14 後沢乗越(うしろざわのっこし)
後沢乗越に辿り着く。ここはまだ、ようやく稜線に乗ったばかりの中継地点に過ぎない。冬の間、温かな部屋で鈍らせてしまった身体には、見上げれば、空へと突き刺さるような急斜面がどこまでも続いている。

風は止まり、じりじりと春の陽光が背中を焼く。ウェアの下には、重たい汗が、じわじわと、けれど確実に滲み出していく。一歩ごとに肺が鳴り、太腿の筋肉が悲鳴を上げる。
山頂のご褒美。相模湾と鍋焼きうどん
10:05 鍋割山頂(1,272m)
最後の急登を詰め、樹林帯を抜けた瞬間、嘘のように視界が弾けた。

登り詰めた先に待っていたのは、すでに多くの人で溢れかえる活気ある広場だった。そして、春の霞の向こうに青く輝く相模湾。


景色を十分に堪能した後は、いよいよ本日の主役と向き合う時間。鍋割山荘の行列に並びようやく手にしたのは、名物の「鍋焼きうどん(2,000円)」。

熱々の土鍋から立ち上がる湯気。海老天、かぼちゃ、卵、きのこ……。ボリューム満点の具材と、少し濃いめの出汁。汗をかき、塩分と熱を求めていた身体の隅々にまで、その旨味が染み渡っていく。標高1,000mを超える場所で、この熱量を胃に収める贅沢。それは何物にも代えがたいご褒美。



稜線の微風と、終わりなき「バカ尾根」の階段
11:33 小丸
鍋焼きうどんの余韻が胃袋に温かく残るなか、稜線を東へと進む。ここからの道は、さきほどの急登が嘘のように穏やかで、開放感に満ちている。

11:48 大丸
三月の柔らかな風が、火照った身体を優しく抜けていく。右手に相模湾を、左手に丹沢の深き山々を望みながらの稜線散歩。このままどこまでも歩いていけそうな錯覚に陥るが、やがて金冷し(きんひやし)へと辿り着いた。ここが大倉尾根――通称「バカ尾根」との合流点だ。そこからは、名前の通りバカ正直なまでに続く、単調で延々と長い下りの連続だった。


11:55 金冷し
12:09 花立山荘
広場には、登りに疲れ果てた者、下りに膝を笑わせている者、大勢のハイカーたちが思い思いに春の陽だまりを楽しんでいた。
ここで食べたかき氷をつい思い出す。

12:34 堀山の家
堀山の家(ほりやまのいえ)の跡地に差し掛かったとき、僕はふと足を止めた。 つい先日、火災によって焼失してしまった山小屋。不意に、かつて焼けつくような真夏の昼下がり、汗まみれで辿り着いたここで、喉を鳴らして飲んだキンキンに冷えたコーラの味を思い出した。喉を焼くような炭酸の刺激と、行き返るようなあの時の安らぎ。それを提供してくれていた場所が、今はもう、ただの静かな跡地になってしまった。

膝に溜まった疲労が限界に近づく頃、ついに下山した。
NPO法人四十八瀬川自然村「どぶろく家」
そこで供されていたのは、黄金色に輝く梅ジュースの炭酸割り(200円)だ。キンキンに冷えたグラスを手に取り、喉を鳴らして流し込む。シュワッと弾ける心地よい炭酸の刺激のあとに、完熟梅の濃厚な甘みと、目が覚めるようなさっぱりとした酸味が追いかけてくる。

「生き返る」とは、まさにこのことだ。

乾ききった身体の細胞ひとつひとつに、梅の雫が染み渡っていく感覚。一気に飲み干すと、ふっと身体が軽くなった。 話を聞けば、このお店はNPO法人が運営しており、スタッフの皆さんはボランティアでハイカーをもてなしてくれているのだという。中には、この環境に惚れ込んで都内から移住し、手伝いに来ている人もいるそうだ。
登山終わりの乾いた心に、最高の梅ジュースと、それを作る人々の笑顔。その出会いに深く感謝し、僕は最後の一滴まで味わい尽くした。
16.4kmの山行を終えて
13:57、大倉バス停着
振り返れば、朝のバスに乗り遅れたあの瞬間の焦燥も、山頂で汗を拭いながら啜った熱いうどんの多幸感も、そして失われた小屋の前で抱いた、あの言いようのない切なさも。そのすべてが、最後に出会った一杯の梅ジュースの爽快さと、ボランティアの人々の温かな笑顔によって、瑞々しく、そして美しい物語へと塗り替えられていた。
春の陽光を背中に感じ、心地よい疲労をザックに詰め込んで、僕は日常へと戻るバスに乗り込んだ。
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