丹沢を歩く者なら誰もが、塔ノ岳(とうのだけ)の山頂に立ったとき、北の方角にゆったりと背を広げる巨大な山影に目を奪われるはずだ。それが、丹沢の王者であり最高峰、標高1,673三メートルの蛭ヶ岳(ひるがたけ)である。
僕にとっても、そこはずっと「羨望の眼差し」を送り続けてきた場所だった。 塔ノ岳の山頂で汗を拭いながら、その先に続く長く、険しく、けれど美しい稜線を眺めては、心の中で何度も呟いた。 「いつか、あそこまで歩いてみたい」
けれど、現実はそう甘くはない。大倉(おおくら)から塔ノ岳を経由して日帰りで挑むとなると、僕の体力では、その隣にある丹沢山(たんざわさん)が限界だった。「今日こそは蛭ヶ岳まで!」と意気込んで家を出ても、丹沢山の頂に辿り着く頃には、帰りの足取りや日没の時間を計算し、結局そこで引き返してしまう。
そんな「あと一歩」が届かないもどかしさを、僕はこれまで何度繰り返してきたことだろう。
一泊二日で挑む「贅沢な丹沢」
この夏、僕はその「心の棘」を抜き去ることに決めた。日帰りの限界に挑むのではなく、一泊二日という贅沢な時間を使って、丹沢の深部へと身を投じることにしたのだ。
行き先は、もちろん蛭ヶ岳。急ぐ必要はない。空の移ろいを眺め、風の匂いを感じ、山の上で一夜を明かす。一泊二日の縦走。
旅の拠点は、最高峰の頂に建つ「蛭ヶ岳山荘(ひるがたけさんそう)」に決めた。早速ホームページをチェックしてみると、料金は素泊まり6千円。夕食と朝食の二食を付けても8千円という設定だった。
「荷物は、できるだけ軽くしたい」
今回は、山小屋の食事に甘えて、身軽な装備で稜線を駆け抜ける「一泊二食付き」のプランをチョイスした。予約はメール一通。送信ボタンを押すと、ほどなくして予約完了の返信が届いた。その一通のメールが、僕の中にある憧れを、確かな予定へと変えてくれた。さあ、いよいよだ。塔ノ岳の向こう側、雲を突き抜けたその先にある「未知の領域」へ向けて、僕は静かに腰を上げた。

いつもの大倉バスロータリーに降り立つ。今回の目的地は、丹沢の最深部にある最高峰・蛭ヶ岳だ。ルートは、ここから鍋割山(鍋割山稜ルート)を経由して塔ノ岳へ上がり、そこから丹沢山、蛭ヶ岳へと主稜線を繋ぐ。帰りは塔ノ岳から「バカ尾根」こと大倉尾根をひたすら下るという、一泊二日のオーソドックスな縦走プランだ。
準備をしながら山の方を見上げると、予報の「晴れ」とは裏腹に、山頂付近には少しずつ厚い雲が広がり始めていた。「まあ、山の天気なんてこんなもんだ」。そう自分に言い聞かせ、期待半分、諦め半分でザックを背負い直す。

丹沢といえば、切っても切り離せないのが「ヒル」の存在だ。バス停近くのポスターが注意を促し、トイレの前には対策用の塩が置かれている。最近は雨上がりともなると、X(旧Twitter)に生々しい目撃情報がよく上がっているから、油断はできない。
経験上、この大倉からの道ではあまり見かけないのだけれど、静かな森を歩いているとついつい忘れがちになる。

レストハウスの前にあるポストで、登山者カードを記入する。自分の名前と、これから歩くルートを丁寧に書き込んで投函。このポストの蓋を閉める感触が、僕にとっては日常のスイッチを切る瞬間でもある。

準備が整い、いよいよ歩き出す。大倉のバス停を出てすぐ、道は二つに分かれる。一方は塔ノ岳へ真っ直ぐ向かう大倉尾根、もう一方は今回僕が選んだ鍋割山稜ルートだ。
《1日目 7:30》大倉バス停出発
今回は急がず、鍋割山の稜線を楽しんでから最高峰を目指そうと思う。民家の脇を通り、少しずつ高度を上げていく。久しぶりに背負うザックの重みを肩で確かめながら、僕はゆっくりと、丹沢へと足を踏み入れた。


この日は朝からよく晴れ渡り、日中の気温は三十度を超えるという予報が出ていた。まずは準備運動を兼ねて、足腰の筋肉をゆっくりと伸ばしながら進んでいく。民家や畑が並ぶのどかな風景の中を行くこの時間は、まだ助走のようなものだ。
ふと目を上げれば、遠くに丹沢の山々が背を広げている。けれど、肝心の山頂付近には、どっしりとした厚い雲が居座っているのが気にかかる。「下界はこんなに暑いのに、あの上には別の天気が待っているのか」。そんなことを考えながら、汗が滲み始めるのを感じつつ一歩一歩、歩を進めた。

のんびりと歩くこと15分ほど。畑の間にひっそりと続く小路が見えてきた。これが、今回の旅の最初の目的地、鍋割山陵ルートへの入り口だ。生い茂る木々に覆われた入り口には、鹿避けの網が厳重に張られている。それを手で丁寧によけて、いよいよ本格的な森の中へと足を踏み入れる。

森に入ると、直射日光が遮られ、少しだけ空気が変わるのを感じた。登り始めの勾配は驚くほどなだらかで、森林浴を楽しんでいるような気分にさせてくれる。足元の土は柔らかく、リズムに乗って歩くには最高のコンディションだ。

このルートを歩いていて何より驚いたのは、その静けさだった。この日は平日。山頂に辿り着くまでにすれ違ったり、追い越されたりした登山者は、わずか三組ほど。土日のあの賑わい――あるいは混雑――が嘘のように、森は深い静寂に包まれていた。
「山を独り占めしている」という、ささやかな、けれど確かな贅沢。 自分の呼吸音と、時折聞こえる鳥の声だけだ。日頃の喧騒も、日々の煩わしい考え事も、この静かな森の緑に吸い込まれて消えていくような気がする。
序盤のなだらかな道は、そんな風に心を整えるための、最高のアプローチになってくれた。これから始まる急登や、その先にある蛭ヶ岳への挑戦を前に、僕は今のこの穏やかな時間を、一歩一歩大切に噛みしめるように歩き続けた。

歩き出してから40分ほど経っただろうか。それまでの静かな森の音に混じって、さらさらと涼やかな四十八瀬川(しじゅうはっせがわ)のせせらぎが聞こえてきた。
この日は予報通り気温がぐんぐん上がり、身体はすでに熱を帯びている。そんな時、不意に届く水の音は何よりの清涼剤だ。
僕は少し歩を緩め、川辺へと降りてみた。
透き通った流れに手を浸すと、水の冷たさが指先から全身へと駆け抜ける。火照った顔や首筋にその水をなすりつけると、ふっと軽くなるような気がした。これこそが、夏の山歩きにおける最高の贅沢だ。

道は途中、川を渡るポイントへと差し掛かる。
この日は幸いにも水量が少なく、「ジャブジャブ」と音を立てて歩いてみる。こうしてダイレクトに水の抵抗を感じながら歩くのは、なんだか童心に帰ったようで愉しい。
ぽっかりと開けた広場に出た。そこには、このルートの名物とも言える光景が広がっている。整然と並べられた、大量の水が入ったペットボトルの山。これらは山頂にある鍋割山荘へと届けられるためのものだ。
「歩荷(ぼっか)ボランティア」――。 山頂で供される名物の鍋焼きうどんや、小屋を支える貴重な水を、登山者たちがそれぞれの体力に合わせて担ぎ上げる。
置かれているボトルは多種多様で、2リットルのペットボトルから、中には焼酎の特大ボトルを再利用したような巨大なものまである。 「さて、どうするかな」と、僕はその重みを想像して少しだけ考え込んだ。

自分の背中には、これから蛭ヶ岳まで歩く一泊二日の荷物がある。けれど、この山にお世話になる挨拶代わりに、少しだけ協力してみるのも悪くない。体力と相談しながら、自分のリズムを崩さない程度の重さを選んでみる。とは言っても無理は禁物。これから先の「後沢乗越(うしろざわのっこし)」からの急登はハードだ。

ここからが鍋割山登山の本番。山頂までは残り2.4キロ。数字で見ればわずかな距離に思えるが、目の前に立ち塞がるのは、見上げるような急斜面だ。

空はどこまでも晴れ渡り、予報通り気温はぐんぐん上がっている。けれど、不思議と気分は上々だった。「よし、行こうか」
僕はザックのストラップを締め直し、一段、また一段と大きな段差を乗り越え始めた。

《1日目 9:15》後沢乗越
登り始めてすぐに、丹沢の洗礼が待っていた。
登山道はしっかり整備されているが、岩や木の根が複雑に絡み合い、一歩一歩に足に力を入れ、段差の激しい上りが延々と続く道をひたすら登る。

わずか30分ほど格闘しただろうか。稜線の分岐点である後沢乗越に辿り着いたとき、僕の身体はすでに極限状態にあった。全身から吹き出す汗は、滲むなんて生易しいものではない。まさに滝のように流れ落ち、目に入ってはチリチリと痛む。僕はここで一度、大きく息を吐いた。ボトルの水を一口含み、熱を持った太ももを軽く叩く。静寂の森に、僕の荒い呼吸だけが響いていた。

後沢乗越から一時間。自分の荒い呼吸と、滴り落ちる汗の音しか聞こえない孤独な戦いが、ようやく終わりを告げようとしていた。 それまで僕の行く手を阻んでいた険しい岩場と木の根の段差が、ふっと影を潜める。周囲の木々が少しずつその背を低くし、頭上の空が驚くほど近くなってくる。「……凌ぎきったな」。
《1日目 10:30》鍋割山到着
過酷な急登の果て、ようやく辿り着いた標高1,272メートルの平原。 熱気に煽られ、ふらふらになりながらも手にした「命の水」と、山頂に漂う名物の匂い。そのリアルな空気感をこれまでの物語に組み込みました。
最後の一段を登り切り、ようやく鍋割山山頂(標高1,272m)へと足を踏み入れた。辿り着いた瞬間、安堵感に包まれた。しかし、身体中の水分を絞り出された僕の身体は、自分でも気づかないうちに限界近くまで悲鳴を上げていたらしい。少しだけ足元がふらつく。


急登の最中、あまりの暑さに用意していた水分をかなりのペースで消費してしまっていたので鍋割山荘で冷えた水を一本購入した。

呼吸を整え、山頂のベンチに腰を下ろす。 目の前には、どこまでも鮮やかな夏空が広がり、その下には秦野の街並みがミニチュアのように霞んで見えていた。あそこから、僕はここまで登ってきたのだ。
《1日目 10:45》鍋割山出発
ふと横を見れば、先客の登山者たちが、この山の代名詞とも言える「名物・鍋焼きうどん」をハフハフと頬張っていた。外気温は30度を超えているというのに、グツグツと音を立てる熱い土鍋を囲むその光景。一見すると奇妙なミスマッチだが、これこそが鍋割山の正しい風景なのだ。立ち上る出汁の香りが、疲れた鼻腔を優しくくすぐる。
「次は僕もあのうどんを食べに来よう」
僕は空になった水ボトルをザックにしまった。身体の火照りは少しずつ引き、代わりに次なる目的地への活力が湧いてくる。次に目指すは塔ノ岳、そして今日の宿、蛭ヶ岳。丹沢の尾根を渡る旅は、ここからがいよいよ本番だ。

《1日目 11:40》小丸・大丸を越えて「金冷し」へ
ここからは小丸(こまる)、大丸(おおまる)と続く鍋割山稜。この区間は非常に美しい稜線歩きが楽しめる場所で、自分のペースで高度を繋いでいく感覚が心地よい。
一歩一歩、丹沢の屋根を渡っていくこと一時間余り。ついに、大倉尾根ルートとの合流地点である「金冷し(かねひやし)」に到着した。ここは多くの登山者が行き交う重要な分岐点だ。ここに来ると、静かだった鍋割山ルートとは打って変わり、メインルートならではの活気が伝わってくる。
塔ノ岳の山頂は、もう目の前だ。距離にして、残り600メートル。しかし、そのわずかな距離のほとんどが、木の階段で構成されている。
真夏の日差しが、遮るもののない階段に照りつける。身体の中に残っていたエネルギーが、一段ごとに一滴ずつ絞り出されていくような感覚。「あと少し、あと少し……」。そう自分に言い聞かせながら、灼熱の階段を這うように登っていく。夏山登山は時として苦しく、時としてこの上なく贅沢な瞬間に変わる。

《1日目 12:05》塔の岳山頂
いに視界が開け、塔ノ岳山頂(標高1,491m)へと辿り着いた。鍋割山を出発して一時間半弱。思いのほかスムーズな到着だったが、代償として僕の身体は極限まで使い果たされていた。
山頂に立った瞬間、驚いたのはその「風」だ。下界の猛暑が嘘のように、山頂では凄まじい強風が吹き荒れていた。さっきまで階段でかき続けた滝のような大汗が、その風に煽られた途端、今度は一気に身体の熱を奪っていく。
「……寒い」
ついさっきまで熱中症の恐怖と戦っていたはずなのに、今は震えが来るほどの冷たさを感じている。山の天気は、どこまでも気まぐれで、そして容赦がない。僕は慌てて防寒を兼ねた昼食の準備に取り掛かった。

塔ノ岳といえば、相模湾までを見渡せる丹沢随一の展望が売りだ。今回の旅でも、ここからのパノラマは大きな楽しみの一つだった。しかし、運命のいたずらか、山頂付近は厚い雲にすっぽりと覆われ、楽しみにしていた景色は白い幕の向こう側へと隠れてしまった。残念ではあるけれど、これもまた山の本当の姿だ。僕は、長めの休憩を取ることにした。尽きかけていた体力をゆっくりと回復していく。

《1日目 12:35》塔の岳山頂出発
塔ノ岳での休憩を終え、次なる目的地は2.6キロ先にある丹沢山。まずは塔ノ岳の山頂から、北へと続く長い下り階段へと足を踏み入れる。

せっかく登ってきた高度をここで一旦下げてしまうのは、何度経験しても少しもったいない気がするものだ。膝に負担をかけないよう、一歩一歩慎重に足を置いていく。周囲は白く煙り、僕が下りていく先は深い霧に吸い込まれていった。

階段を下りきると、道は丹沢の背骨をなぞる稜線へと変わる。本来ならば、ここは左右に絶景が広がり、遠くには雄大な富士山をくっきりと望める特等席だ。しかし、今日の空は厚い雲に覆われ、視界はわずか数メートル。

「晴れていれば最高なんだけどな」
そんな独り言が口をつくが、絶景がない分、意識は自然と足元の感触や周囲の物音に集中していく。晴れた日の開放感とは違う、まるで自分だけが世界に取り残されたような静寂の稜線歩き。
平坦な稜線を一時間ほど歩くと、道は再び上りへと転じる。
「ここを登り切れば山頂だ」
一歩一歩、太ももの筋肉に今日一日の疲れを確かめながら、僕はゆっくりと高度を上げていく。

《1日目 13:35》丹沢山頂到着

ついに標高1,567メートルの丹沢山頂へと辿り着いた。
派手な眺望はなかったけれど、ガスに包まれた稜線を自分だけのペースで歩き通した充実感がある。ザックを下ろすと、しっとりとした山の空気が火照った身体に心地よかった。

《1日目 13:50》丹沢山出発
丹沢山での休息を終え、いよいよ今回の縦走の最終章へと踏み出す。目的地、蛭ヶ岳までは3.4キロ。ここから先は、僕にとって未知の領域だ。
まずは丹沢山頂から、再び階段の下りが続く。登ってきた分をまた下る、山歩きではお馴染みの光景だ。一歩ずつ、高度を下げていく。周囲はいつの間にか深いガスに包まれ、視界はさらに悪くなってきた。けれど、蛭ヶ岳がすぐそこまで迫っているという高揚感が、僕の足を前へと押し出してくれる。

稜線を歩いていると、霧の中に奇妙な形の樹木が並んでいるのが見える。常に一定方向から風が吹いているせいか、どの木も同じ方向に大きく傾いている。厳しい環境に適応して生きている植物の、ありのままの姿がそこにあった。
また、この辺りからはノイバラの棘が目立つようになる。油断していると衣服に引っかかり、チクチクとした刺激が伝わってくる。


《1日目 14:40》不動の峰休憩所を通過
避難小屋のような造りの不動の峰休憩所に到着した。晴れていればここからの眺望を楽しみにしていたのだが、あいにくの強風と厚い雲で、外の景色は全く見えない。休憩は取らずにそのまま先を急ぐことにした。風は相変わらず強く、体温を奪われないよう淡々と足を動かす。

進むにつれて、視界はいよいよ悪くなってきた。 数メートル先が白く霞む中、道迷いに注意しながら一歩ずつ地面を踏みしめる。自分の足音と風の音だけが聞こえる、静かな時間だ。
霧の向こうにあるはずの山頂山荘を目指し、僕はただ黙々と歩き続けた。

《1日目 15:00》鬼ヶ岩ノ頭
15時ちょうど、往路のクライマックスとも言える鬼ヶ岩ノ頭(おにがいわのあたま)に差し掛かった。
それまでの土の道とは一変し、目の前にはゴツゴツとした岩場が立ち塞がる。視界は相変わらず良くないが、霧の中に浮かび上がる岩の輪郭を確認しながら、一歩ずつ慎重に足を置いていく。

要所にはしっかりとした鎖が設置されており、補助として使うことで安定して進むことができた。この岩場の途中で、一組の老夫婦とすれ違った。丹沢山を出てからずっと一人だったので、人の気配に触れて少しだけホッとしたのが正直なところだ。


岩場を抜け、霧の向こう側に建物がぼんやりと見えてきた。

《1日目 15:35》蛭ヶ岳山頂
ついに、ずっと遠くから眺めるだけだった場所、標高1,672メートルの蛭ヶ岳山頂に到着した。
朝の猛暑から始まり、塔ノ岳以降はひたすら雲の中を歩き続けた一日だった。景色こそ見えないが、長年「いつか」と思っていた場所に今立っているという事実は、静かな達成感となって身体に染みてくる。
ただ、真夏とはいえ山頂の風は冷たく、汗ばんだ身体にはかなり肌寒い。十分ほど滞在して登頂の余韻を味わった後、すぐそばにある蛭ヶ岳山荘へと向かった。

視界も悪く、真夏なのにかなり肌寒かったので10分ほど滞在したら本日お世話になる蛭ヶ岳山荘へ行きました。

本日お世話になる蛭ヶ岳山荘では、管理人さんが優しく迎えてくれた。館内は綺麗に整理されており、何より驚いたのはその静かさだ。この日の宿泊客は僕を含めてわずか三名とのこと。
「今日は広々と使ってくださいね」という言葉通り、スペースを贅沢に使うことができ、心底リラックスできそうだ。 外は相変わらずの白い世界だが、木の温もりがある山小屋の中に落ち着くと、今日歩いてきた道のりが、確かな充足感とともに思い出された。
疲れた体に染み渡るビールとカレーの夕食
案内された部屋は、思いのほか広々としていた。
他にも部屋はいくつかあったが、この日は宿泊客が三名と少なかったためか、使われていない部屋は静かに閉じられていた。木の温もりが感じられる空間に荷物を下ろすと、ようやく肩の力が抜けていくのがわかる。

自分へのご褒美。500円のビールとよっちゃんイカ。
まずは何よりも先に、自分への労いとしてビールを注文した。一本500円。山の上という場所を考えれば、実にありがたい価格設定だ。さらに嬉しいことに、おまけとしてよっちゃんイカを頂いた。
冷えた缶を開け、グイッと喉に流し込む。ビールの苦味と、よっちゃんイカの独特の酸味。それらが、今日一日使い果たした体の隅々にまで、じわじわと染み渡っていく。

夕食は、誰もが心待ちにするカレーライスだった。メニューはカレーとスープ、そしてセルフサービスのお漬物。各自が好きな分だけお漬物を取り分け、静かに食卓を囲む。
今日の前半戦、塔ノ岳までは三十度を超える猛暑との戦いだった。それが後半になると一転、強い風と霧による寒さにさらされた。この極端な気温差は、思った以上に体力を削っていたようだ。
温かいカレーを一口運ぶたびに、内側から少しずつ体温が戻ってくるのを感じる。派手なご馳走ではないけれど、今の僕にとってはこれ以上の食事はない。冷たいビールと温かいカレー。そのコントラストが、疲弊した細胞を一つひとつ呼び覚ましてくれるようだった。


《2日目 4:45》蛭ヶ岳山荘
よほど疲れが溜まっていたのだろう。昨晩、管理人さんと世間話や山の話を少し交わした後、吸い込まれるように寝床に入った。そのまま一度も目を覚ますことなく、気がつけば周囲が薄明るくなり始めていた。
ふと意識を戻すと、小屋全体がミシミシと鳴り、時折大きく揺れている。外はかなりの強風のようだ。
身支度を整え、強風に煽られながら外へ出た瞬間、僕はその場に釘付けになった。 目の前に広がっていたのは、言葉を失うほどの圧倒的な光景だった。
昨日は厚いヴェールの向こう側に隠れていた富士山が、今はその完璧なシルエットをくっきりと現している。空が白み始め、東の地平線からご来光が差し込むと、世界がゆっくりと紅く染まり始めた。

視線を足元に落とすと、そこには猛烈な風に煽られた雲海が、稜線を乗り越えて谷底へと流れ落ちていた。 まるで巨大な白いカーテンが崩れ落ちるような、「滝雲(たきぐも)」。静止した景色ではなく、今まさに激しく動いているという躍動感。

朝焼けに染まる富士山を眺めていると、寒さや風の強さも忘れ、体の内側から熱い感動が込み上げてきた。 「ああ、ここまで来て本当によかった」
長年、ふもとや塔ノ岳から眺めていただけの場所。そこに立ち、この光景を独り占めしているという事実は、何物にも代えがたい。 短い滞在だったが、網膜に焼き付いたこの色彩と風の感触は、これから先もずっと消えることはないだろう。

《2日目 5:15》蛭ヶ岳山荘での温かな朝食
身支度を整えていると、ちょうど朝食の準備ができたと声をかけられた。ごくシンプルな朝食だが、冷え込んだ朝の体に温かい汁物がこれほど染み渡るものかと思う。
一口ずつ、今日の長い下り道のためのエネルギーを蓄えるように、ゆっくりと味わった。派手なご馳走ではないけれど、この静かな空間でいただく食事は、何物にも代えがたい贅沢な時間に感じられた。

《2日目 5:50》二日目のスタート。
食事を終え、いよいよ出発の準備が整った。
今回、温かく迎えてくれた管理人さん、そして同じ屋根の下で一夜を明かした二人の登山者さんたち。
「お気をつけて」「良い山行を」
そんな短い言葉を交わし、感謝を伝えて小屋を後にする。一期一会の出会いだが、不思議な連帯感が山にはにはある。
ザックを背負い、大倉へ向けて歩き出す前にもう一度だけ山頂の広場に立ち寄った。五時を過ぎ、だんだんと周囲の雲が取れて視界がよりクリアになっている。
そこには、朝の光を浴びて一段と凛とした姿の富士山が立っていた。この光景をしっかりと目に焼き付け、僕は一泊二日の旅の後半戦、大倉への復路をスタートさせた。

山頂に別れを告げ、まずは3.3キロ先の丹沢山を目指して歩き出す。

相変わらずの強風だが、そのおかげで視界を遮る雲がビュンビュンと音を立てるような速さで流れていく。目の前には滝のように流れる雲海が広がり、まるで空の上を散歩しているような、不思議な感覚に包まれる。


朝靄と雲が複雑に入り混じる中、ふと雲が切れた隙間に、遠く相模湾の輝きが見えた。昨日は何も見えなかったこの稜線が、実はこれほどまでに開放的な場所だったのかと、一歩ごとに新しい発見がある。

《2日目 6:42》鬼ヶ岩ノ頭
歩き始めてしばらく経ち、体がようやく暖まってきた頃、最初のポイントである鬼ヶ岩の頭に到着した。昨日下った岩場を、今度は下から見上げる形になる。こうして見るとかなりの傾斜で、なかなかの迫力だ。一般的に、こうした岩場は下りよりも登りの方が足場の確認がしやすく、精神的な負担も少ない。補助の鎖を適度につかいながら、リズム良く一気に登り返していく。一歩一歩、確実に高度を稼いでいくこの感覚。背中には心地よい朝の光を感じながら、僕は丹沢の主稜線を着実に踏みしめて進んだ。

《2日目 6:42》鬼ヶ岩ノ頭
山頂付近からも見えていた、特徴的な三角の岩が目の前に迫る。ここが鬼ヶ岩のピークだ。道は大小さまざまな岩が重なり合っており、手足を使ってそれらを一つひとつクリアしていく。朝一番の身体には少しこたえるが、岩を掴むたびに意識が研ぎ澄まされていくのがわかる。

鬼ヶ岩を過ぎ、道は緩やかなアップダウンを繰り返す稜線歩きへと変わる。
06:46 鬼ヶ岩ノ頭 通過
06:56 棚沢ノ頭 通過
この時間帯になると、出発時の寒さが嘘のように消え、じりじりと「夏の暑さ」が戻ってきた。
薄手の防寒着を脱ぎ、再び夏の登山スタイルに戻る。山の上で感じる1〜2時間の温度変化は、下界のそれよりもずっとドラマチックだ。
美しき主稜線
暑さに汗が滲み始めるが、視界に飛び込んでくる風景がそれを忘れさせてくれる。 どこまでも続く丹沢の主稜線。 昨日は真っ白な霧に隠されていたその全貌が、今は鮮やかな緑と深い谷のコントラストを伴って、僕の目の前に横たわっている。この「山を歩いている」という実感を強くさせてくれる景色こそが、一泊二日の旅を選んだ最大の報酬かもしれない。
やがて、次のポイントである不動ノ峰の山影が見えてきた。


午前7時8分、不動ノ峰に到着。 昨日の14時40分、ここを通過した時は、強い風に煽られながら真っ白な霧の中をひたすら突き進むだけだった。しかし今、目の前には昨日見ることができなかった丹沢の深い山並みがどこまでも続いている。
「ここは、こんなに景色が広がっていたのか」
そんな当たり前のことに、今さらながら感動する。遮るもののない稜線は、歩いているだけで心が洗われるようだ。日差しはすでに強くなり始めているが、標高1,500mを越える場所を吹き抜ける風は、まだ十分に心地よい。

不動ノ峰から丹沢山までの道は、今回の縦走の中でも特に展望に恵まれた、贅沢な空中散歩のハイライトだ。
アップダウンをこなしつつ、自分の影を前方に追いかけながら淡々と歩を進める。視界が良いと、目標とする山頂がはっきりと見えるため、心なしか足取りも軽く感じられる。


《2日目 9:07》再び塔ノ岳山頂へ
再び塔ノ岳の山頂に立った。 昨日のあの白い霧と強風が嘘のように、空は抜けるような青に染まっている。昨日リベンジを誓った通り、そこには眼下に広がる秦野の街並みと、その先に輝く相模湾のパノラマが広がっていた。ここからの眺望は何度見ても飽きることがない。
けれど、喜んでばかりもいられない。太陽が高くなるにつれ、気温は容赦なく上がり始めていた。


山頂を後にし、いよいよ「バカ尾根」として知られる大倉尾根へと足を踏み入れる。
09:25 花立ノ頭(はなだてのあたま)通過
09:35 花立山荘(はなだてさんそう)到着
この頃には、急激な気温の上昇で頭が少しぼーっとしてきた。昨日の寒さが遠い昔のことのようだ。そんな限界に近い状態の僕を救ってくれたのが、花立山荘のかき氷だった。
「……生き返る」
キーンと冷えた氷が喉を通るたびに、火照った細胞が一つひとつ蘇っていくのがわかる。この夏の山行において、間違いなく最高のかき氷だった。この一杯がなければ、この後の長い下りに心が折れていたかもしれない。

《2日目 12:42》大倉登山口:バカ尾根、三時間の闘い
かき氷で英気を養い、ここからは自分との戦いだ。 標高差約一千二百メートルを一気に下る大倉尾根。その名の通り、単調で執拗な階段が延々と続く。
10:33 堀山の家(ほりやまのいえ)
10:50 堀山(ほりやま)
10:59 駒止茶屋(こまどめぢゃや)
11:38 見晴茶屋(みはらしぢゃや)
12:06 観音茶屋(かんのんぢゃや)
膝の笑いを抑えながら、点在する茶屋を一つずつパスしていく。昨日歩き始めた時の高揚感は、今や「無事に下りきる」という一点の集中力に変わっていた。
12時42分。ついに、見覚えのある大倉登山口へと辿り着いた。
ザックを下ろし、アスファルトの熱気を感じた瞬間、ようやく一泊二日の旅が終わったことを実感した。 前半の猛暑、後半の霧と風、そして最後に待っていた朝焼けの富士山。
塔ノ岳から羨望の目で眺めていたあの頂・蛭ヶ岳は、もはや「遠い場所」ではなく、自分の足跡を刻んだ「思い出の場所」になった。 足腰には確かな痛みがあるけれど、それさえも心地よい旅の余韻だ。丹沢という山の、厳しさと優しさの両方に触れた、実に贅沢な二日間だった。
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