鍋割山から塔ノ岳へ|稜線歩きが最高だった日帰り登山

    ハイキング/登山

    鍋割山行き

    山に登る理由は人それぞれだ。絶景のため、自分を追い込むため、あるいはただ静寂を求めるため。

    丹沢・鍋割山。標高1,272メートル。その頂には「鍋割山荘」があり、そこである名物が登山客を虜にしているという。

    三月の三連休、予報は抜けるような快晴。「天気がいいなら、いっちょ行ってみっか」。そんな軽い気持ちでパッキングを始めたのだが、念のためにと事前の情報収集を開始した。

    ぼんやりとX(旧Twitter)を眺めていた僕の目は、ある一文に釘付けになり、思わず「ギョッ」と声を上げそうになった。

    「3月、ヤマビル活動開始」

    その文字が網膜に飛び込んできた瞬間、背筋に冷たいものが走る。 かつての大山阿夫利神社。あの日、僕は奴らの執拗な襲撃に遭い、文字通り「血の洗礼」を受けた。それ以来、僕の身体は「ヒル」という二文字を見ただけで、古傷が疼くような、あるいは得体の知れない何かが足首を這い上がってくるような錯覚に陥る「過剰反応体質」へと作り変えられてしまったのだ。

    三月のポカポカ陽気。それは人間にとっての楽園であると同時に、湿った落ち葉の下で息を潜める「吸血鬼」たちが、長い眠りから覚めて空腹を満たそうと蠢き出す合図でもある。

    《07:30》大倉駐車場

    大倉登山口の拠点といえば、150台のキャパを誇る秦野戸川公園大倉駐車場が定番だ。しかし、気を付けなくてはいけない事がある。営業開始が午前8時なのだ。当然、公園のゲートは固く閉ざされたままだ。

    そこで僕は、すぐ近くにある24時間営業の大倉駐車場へと車を回した。 当日最大800円。静まり返った駐車場で登山靴の紐を締め直す。

    《07:55》大倉駐車場出発

    三月の丹沢は、麓が春の顔をしていても、北斜面や樹林帯の奥には冬のしぶとい名残を隠し持っていることがある。念のため、ザックの底に軽アイゼンを忍ばせた。

    準備は整った。 今回は大倉を起点に、⑤鍋割山稜ルートを選択した。 まずは喧騒を避け、のどかな畑風景のなかを、四十八瀬川のせせらぎを目指して歩き出す。ここから鍋割山頂まで、自分自身と向き合う約16キロの旅の始まりだ。

    丹沢の鍋割山のルート
    丹沢縦走ルート

    大倉駐車場から歩いてわずか一分。そこにある大倉バス停は、丹沢の懐へと飛び込むハイカーたちの拠点だ。

    三月の澄み渡った青空の下、広場はすでに色とりどりのザックやウェアで溢れ返り、あちこちで靴紐を締め直したり、地図を確認したりする活気ある喧騒に包まれている。

    ここで、道は分かれる。 丹沢のメインストリートとも言える大倉尾根を伝って塔ノ岳を目指す王道ルートと、僕が選んだ鍋割山へと続く静かなルート。

    バス停のすぐ前、香ばしい大豆の匂いが漂ってきそうな「とうふ工房三河屋」。その角に立つ標識の指し示す通り、僕は鍋割山方面へと舵を切った。

    ふと周囲を見渡すと、その日の比率は圧倒的だった。 ざっと見積もって9対1。大多数のハイカーたちは、吸い込まれるように塔ノ岳方面へと向かっていく。背中を向けて歩き出した僕の視界からは、瞬く間に人影が消えていった。

     
    丹沢の鍋割山登山
    左は鍋割山方面。右は大倉尾根から塔ノ岳方面

    三河屋さんの角を曲がると、景色は一変して、どこか懐かしいのどかな田園風景へと溶け込んでいく。

    そこからの15分ほどは、本格的な急登に備えるためのストレッチ。舗装された道を歩きながら、肩を回し、足首の調子を確かめ、春の陽光を身体に馴染ませていく。

    三月の連休、山を待ちわびたハイカーたちの足取りは驚くほど速い。 僕が畑の緑を眺めながらのんびりと歩を進めている間に、背後から軽快な足音が近づき、一組、また一組と、色とりどりのザックが僕を追い抜いていった。

    三組ほどのパーティを見送った頃、ようやく里の道は終わりを告げ、本格的な山行の始まりを告げる登山口へと辿り着いた。

    丹沢の鍋割山登山
    麓にはキャベツ畑が広がっている

    《08:15》登山口

    丹沢を歩く者にとって、切っても切り離せない悩みの種――それがヤマビルだ。 近年、生息域を広げ続けるこの吸血鬼たちは、鹿の体にへばりついて山を移動するらしい。その拡大を少しでも食い止めるため、登山道の要所には頑丈な鹿除けのバリケードが築かれている。

    鍋割山への道も例外ではない。 行く手を阻むように現れた柵。その入り口は網状になっており、そこを慎重に潜り抜けて先へと進む。

    このネット一枚を隔てて、世界はのどかな農村から、野生の掟が支配する深い森へと切り替わる。バリケードを閉じる音を背中で聞きながら、僕は改めて足元に目をやった。吸血鬼たちの襲撃に怯える季節が、もうすぐそこまで来ているのだ。

    丹沢の鍋割山登山
    鹿の侵入制限のための網のゲート

    バリケードを抜けると、そこには朝の光が斜めに差し込む杉の林が待っていた。

    真っ直ぐに伸びた木々の隙間から、三月の柔らかな日差しがこぼれ落ち、足元を照らしている。このあたりの道は息を切らすようなアップダウンもなく、平坦で柔らかな土を踏みしめて進む。

    春の陽気に包まれ、ザックの重みさえも心地よい。身体が羽が生えたように軽くなり、誰も見ていないのをいいことに、思わず小さなスキップがこぼれてしまった。

    これから始まる急登の厳しさを、この時の僕はまだ、春の光の中で忘れていた。

    丹沢の鍋割山登山
    朝の木漏れ日が気持ちいい
    丹沢の鍋割山登山
    山頂まで7kmの標識
    丹沢の鍋割山登山
    序盤は整備されたフラットな林道を歩く

    《09:05》四十八瀬川沿い

    三月の川の水量はわずかに流れている程度。 目の前には年季の入った木の渡し板が架けられていましたが、薄く湿った木肌は、時として登山靴のソールを裏切る危うさを持っています。水が少ない今なら、むしろ露出した川を渡るほうが、よほど確実で安全そうに見えた。

    丹沢の鍋割山登山
    この日は水量がなかったので飛び石を渡る
    丹沢の鍋割山登山
    広い河原からこれから登る山を見上げる
    丹沢の鍋割山登山
    本沢渡渉点

    《09:25》ミズヒ沢渡渉点の歩荷ボランティア

    川沿いの小径をさらに詰めると、不意に視界が開け、ハイカーたちが集まっている場所に出た。

    そこには、水が詰まったペットボトルが並んでいる。 聞けば、鍋割の山頂に届けるものだという。あの有名な鍋焼きうどんの出汁も、山小屋の生活も、麓から運び上げる水に支えられている。体力に自信のある者が背負い、ボランティアで山荘まで届ける——。

    木棚を覗き込むと、4リットルの大物と、少し控えめな2リットルのボトルが僕を待っていた。 屈強な猛者たちは迷わず4リットルをザックに括り付けていくが、僕はといえば、今回が初めての鍋割山。己の力量も知らぬまま無謀に走るよりは、まずは敬意を込めて「2リットル」を一本、相棒として選ぶことにした。

    ザックの隙間にペットボトルを滑り込ませると、ずしりとした確かな質量が肩に伝わってくる。 これまで軽やかだった足取りに、少しだけ責任という名の重みが加わった。

    丹沢の鍋割山登山
    ミズヒ沢渡渉点
    丹沢の鍋割山登山
    体力のある人はボランティアで鍋割山荘へ水を届ける
    丹沢の鍋割山登山
    この地点から鍋割山へは2.4km

    残り2.4キロ。 数字にすればわずかだが、ここからが本格的な登りが始まる。

    ミズヒ沢渡渉点を越えた瞬間、それまで僕を甘やかしてくれた穏やかな林道は、音を立てるようにして幕を閉じた。 目の前に現れたのは、沢沿いにひたすら続く、天へと伸びるような登りだ。

    景色が一変する。 それまでの横移動が、垂直方向へへと変わる。一段、また一段。ザックに忍ばせた2リットルの水が、急斜面に差し掛かった途端、まるで意志を持っているかのようにその質量を主張し始めた。

    肩に食い込むストラップの感触。 重力という名の、避けることのできない自然の掟。沢の音を背中に聞きながら、僕は覚悟を決めて、一歩目をその急峻な登りへと踏み出した。

    丹沢の鍋割山登山
    ここから急登がはじまった
    丹沢の鍋割山登山
    ひたすら続く上り階段

    ひたすら続く階段。一段、また一段。容赦なく太腿に乳酸が溜まり、額からは春の陽光を吸った汗が滝のように流れ落ちる。目に入った汗の塩分が沁みて、視界が歪む。 序盤、あののどかな林道で浮かれて見せた無邪気なスキップが、今となっては遠い昔の記憶のように思えてくるから不思議なものだ。

    数歩登っては立ち止まり、激しく波打つ肺を鎮める。そしてまた、重い腰を上げて一段。その繰り返しだ。

    誤算だったのは、ザックの中に縦へと滑り込ませた、あの善意の2リットルだった。重さそのものは耐えられないほどではない。だが、重心が安定せず、一歩踏み出すたびにザックの中で左右に不規則なリズムを刻み、僕の体幹を揺さぶってくるのだ。

    たまらず路の傍らにザックを放り出し、中の位置を直す。だが、この「ザックを下ろし、弄り、再び背負い直す」という一連の所作が、今の僕には何よりも面倒くさい。

    丹沢の鍋割山登山
    かなり上まで階段が続く
    梯子もあります

    《09:50》山頂まで1km

    高度が上がるにつれ、閉ざされていた視界がにわかに広がり、頭上の空がぐっと近くなる。 それまで僕を包んでいた、暗く整然とした杉の植林帯はいつの間にか影を潜め、代わって現れたのはブナの林だ。

    ブナの柔らかな灰色の肌と、春の光を透過させる奔放な枝ぶり。重い水を背負い、ただ足元だけを見て喘いでいた僕に、山がようやく素顔を見せてくれたような気がした。

    冷たく澄んだ空気が肺の奥まで入り込み、火照った身体を内側から鎮めてくれる。

    ブナの木が多くなってきた
    丹沢の鍋割山登山
    のこり800mの標識。あと少し!
    山頂に続く道
    日陰にはちらほらと残雪がある
    道が突然切れた。山頂の予感がする
    山頂にある山荘が見えた

    《10:40》鍋割山頂到着

    ついに、平坦な地が僕を迎え入れた。鍋割山の頂だ。
    「……疲れた」
    独り言が、春の乾いた空気に溶けていく。

    ミズヒ沢渡渉点を越えてから今日ここに至るまでの、あの狂おしいほどの連続した登り。重力という名の見えない鎖に抗い、己の肺を鳴らし続けたあの時間は、思い返せば気が遠くなるほど過酷なものだった。

    だが、顔を上げた瞬間にすべてを許せてしまった。 雲ひとつない蒼穹の下、そこに広がっていたのは、肩に食い込んでいた疲労を一瞬で霧散させるほどの、圧倒的なパノラマだった。

    丹沢の鍋割山登山
    鍋割山頂地点(1,272m)

    視線を巡らせれば、そこには丹沢の主峰たちが連なる雄大な稜線が横たわっている。丹沢山から、最高峰の蛭ヶ岳へと続く、険しくも美しい山脈の背骨。 そして、そのさらに向こう。 春の柔らかな霞を透かして、白銀の衣を纏った富士が、孤高の姿で凛として座っていた。

    胸の奥が、言葉にならない熱い塊でいっぱいになる。冷たく澄んだ空気を吸い込むと、空っぽになったはずの身体に、再び新しい命が吹き込まれていくような気がした。

    丹沢の鍋割山登山
    鍋割山頂から富士山が綺麗に見えた
    丹沢の鍋割山登山
    蛭ヶ岳・丹沢山方面にも雲ひとつない

    登っている最中には心地よかった春の陽射しも、足を止めた瞬間にその正体を現す。五分もじっとしていれば、さっきまで僕を熱く鼓舞していた汗が、今度は容赦なく体温を奪い去る冷却水へと変わる。身体の芯から這い上がってくる寒気に、思わず肩をすくめた。山荘の前には、あの一杯を求めて長蛇の列が伸びている。

    丹沢の鍋割山登山、山荘
    名物鍋焼きうどんを求めて大勢が並んでいました

    「ちょっとこの寒さで待っているのは辛いな。今回は諦めよう」。自分にそう言い聞かせ、僕はうどんを諦めることにした。 幸い、山は逃げない。この一杯は、また次の機会の楽しみとして取っておけばいい。

    せめてもの務めとして、麓から共にしてきた二リットルのペットボトルだけを、山荘の入り口横に静かに置く。 「誰かのうどんの、良い出汁になってくれよ」 心の中でそう呟き、静かな下山路へと足を踏み出した。

    《10:55》景色が最高だった稜線歩き

    山頂に辿り着いた瞬間は、正直に言って身体の芯までヘロヘロだった。 使い果たした筋肉が、静かに悲鳴を上げているのがわかる。だが、乾いた風に吹かれ、絶景を眺めながら少しばかり腰を落ち着けていると、身体の奥底から妙な欲がふつふつと湧き上がってきた。

    ふと、傍らに立つ道標が目に入る。 ——塔ノ岳、2.8キロ。

    「……行けるな」

    この快晴の下、あの美しい稜線を歩かずに帰るのは、あまりに勿体ない。

    予定なんてものは、その瞬間の風の向きや、自分の魂の震え方で書き換えるためにある。 僕は再びザックを背負い直し、靴紐の締まりを確認した。「よし、もう一丁、足を伸ばしてみるか」。急遽、行き先を変更。僕は熱狂の山頂を後にし、次なる高み、塔ノ岳へと続く静かな稜線へと踏み出した。

    丹沢の鍋割山登山
    鍋割山頂から塔ノ岳までは2.8km

    鍋割山頂を後にし、次なる高みへと続く稜線へと足を踏み出す。ここからの道は、さっきまでの垂直の苦行が嘘のような、空に近い楽しみの始まりだった。

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