だが、その安らぎも長くは続かない。見上げれば、そこには「心臓破り」という名が相応しい、垂直に近い階段が待ち構えていた。僕はカチカチに凍っていたはずの麦茶のペットボトルを手に取り、溶け出したわずかな滴を喉に流し込んだ。
さあ、頂上まであと少し。


《08:45》権次入峠(ごんじりとうげ)
容赦のない急登の連続に、僕の肺はひどく喘いでいた。なんとか辿り着いた峠の休憩スポット。ザックを放り出し、丸太のベンチに腰を下ろす。ここまで来れば、頂上はもう目と鼻の先だ。

ザックの奥から、例の冷凍麦茶を取り出す。朝の出発時にはカチカチだった塊が、激しい運動と夏の熱気で見事に解凍されていた。キャップを開け、一気に喉に流し込む。キンキンに冷えた琥珀色の液体が、乾ききった身体の隅々まで染み渡っていく。日本の山には、やはり麦茶が一番よく似合う。その素朴な香ばしさが、折れかけていた心に再び火を灯してくれた。
《09:00》棒ノ折山山頂
峠からの十五分。
地面を這うように浮き出た木の根の階段を、一歩、また一歩と踏み越えていく。
なまりきった身体が発する悲鳴を、頂上の風への期待感でねじ伏せる。
不意に視界を遮っていた木々が消え、空が大きく口を開けた。ついに、山頂だ。



標高969メートル。
眼下には、秩父方面の山々が幾重にも重なり、奥深い緑の海となって広がっている。
吹き抜ける風は、下界の熱気を置き去りにしてきたかのように涼やかだ。僕は広々とした山頂の真ん中で、ようやく深く、本当の呼吸を取り戻したような気がした。

《09:20》遅い朝食、早い昼食
僕はザックから一合の米と、レトルトの牛丼を取り出した。朝から何も口にしていなかった僕の胃袋は、すでに準備万端だと鳴り響いている。

ダイソーのメスティンに米と水を放り込み、コンロの火にかけた。しばらくすると、蓋の隙間から蒸気が吹き出し、「グツグツ」と小気味よい音が聞こえてくる。米が炊き上がるこの音は、いつ聞いても心が落ち着くものだ。
十分ほど火にかけ、火から下ろすと、手早くタオルに包んで蒸らしの工程へ。 ついでにレトルトの牛丼も一緒に巻き込み、余熱で温める。

タオルを解き、蓋を開ける。炊き立ての白飯に牛丼の具を滑らせると、甘辛いタレの香りが一気に立ち上がった。
タレがしっかりと染みた肉。レトルトとは思えないシャキシャキとした玉ねぎの食感。 空腹という最高の調味料も手伝って、僕は夢中でかき込んだ。ただ、一つだけ誤算があった。米一合に対して、具が少しばかり心許ない。
「もう少し具があれば……」
そんなことを考えていると不意に体長2-3センチくらい、黒と黄色の昆虫が集まってきた。スズメバチの襲来!?かと緊張したのですがよく見るとスズメバチによく似た「アカウシアブ」。座っていたベンチを中心に3匹、4匹と増えてきたので急いで下山準備に取り掛かる。

《09:55》下山開始
アブの執拗な旋回に追い立てられるようにして、僕は山頂をあとにした。下りは岩茸石(いわたけいし)の分岐から、河又(かわまた)バス停方面へと舵を切った。このルートは、三箇所ほどアスファルトの車道と交差するポイントがあるものの、基本的には一直線に尾根を伝い、スタート地点である「さわらびの湯」のすぐそばまで一気に下りる道だ。

単調な林道が続くが、往路の沢歩きとはまた違う、静かな森の呼吸を感じる。時折、木々の隙間から人工的なアスファルトが顔を出す。

標高を下げていくにつれ、視界の端に銀色の輝きが混じり始めた。入間川(いるまがわ)だ。高い場所から眺める川の流れは、どこか懐かしく、そして何より涼しげだ。
あの水の流れの先には、僕が今日、最後のご褒美として定めている「湯」が待っている。膝に溜まり始めた疲労を、川面の煌めきで誤魔化しながら、僕は一歩一歩、確実に麓へと距離を詰めていった。

《11:20》下山
森のトンネルを抜けると、そこには暴力的なまでの夏の光が待っていた。ついさっきまで杉木立の影に守られていた身体に、七月の太陽が容赦なく照りつける。
入間川(いるまがわ)に架かる橋を渡る。ふと耳を澄ませば、遠くから子供たちが川遊びに昂じる賑やかな声が響いてきた。水飛沫を上げて笑い合う姿。
汗みどろの僕の身体は、理性をかなぐり捨ててそのまま川に飛び込みたいという強烈な衝動に駆られる。だが、今の僕には、その「さらに先」の目的地がある。


《11:40》さわらびの湯
ようやく駐車場に停めていた車に辿り着いた。
まずは、この数時間僕の足を締め付けていた重苦しい登山靴と、湿りきったソックスを脱ぎ捨てる。代わりにサンダルに足を滑り込ませた瞬間、足指の間を抜けていく風。
「……生き返る」
この解放感は、密やかな快感だ。
車内に用意していた温泉セットを引っ掴む。目指すはすぐそこにある「さわらびの湯」だ。火照った筋肉を解きほぐし、毛穴に詰まった夏の記憶を洗い流す。
この山行の最後にして最大の仕上げ。
僕ははやる気持ちを抑えつつ、極楽の入り口へと急いだ。

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