ふと意識を戻すと、小屋全体がミシミシと鳴り、時折大きく揺れている。外はかなりの強風のようだ。

身支度を整え、強風に煽られながら外へ出た瞬間、僕はその場に釘付けになった。  目の前に広がっていたのは、言葉を失うほどの圧倒的な光景だった。

昨日は厚いヴェールの向こう側に隠れていた富士山が、今はその完璧なシルエットをくっきりと現している。空が白み始め、東の地平線からご来光が差し込むと、世界がゆっくりと紅く染まり始めた。

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息を飲むほどの光景

視線を足元に落とすと、そこには猛烈な風に煽られた雲海が、稜線を乗り越えて谷底へと流れ落ちていた。  まるで巨大な白いカーテンが崩れ落ちるような、「滝雲(たきぐも)」。静止した景色ではなく、今まさに激しく動いているという躍動感。

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強風に煽られて雲海が滝のように流れている

朝焼けに染まる富士山を眺めていると、寒さや風の強さも忘れ、体の内側から熱い感動が込み上げてきた。  「ああ、ここまで来て本当によかった」

長年、ふもとや塔ノ岳から眺めていただけの場所。そこに立ち、この光景を独り占めしているという事実は、何物にも代えがたい。 短い滞在だったが、網膜に焼き付いたこの色彩と風の感触は、これから先もずっと消えることはないだろう。

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蛭ヶ岳からの朝焼けの富士山

《2日目 5:15》蛭ヶ岳山荘での温かな朝食

身支度を整えていると、ちょうど朝食の準備ができたと声をかけられた。ごくシンプルな朝食だが、冷え込んだ朝の体に温かい汁物がこれほど染み渡るものかと思う。

一口ずつ、今日の長い下り道のためのエネルギーを蓄えるように、ゆっくりと味わった。派手なご馳走ではないけれど、この静かな空間でいただく食事は、何物にも代えがたい贅沢な時間に感じられた。

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暖かい朝食に感謝

《2日目 5:50》二日目のスタート。

食事を終え、いよいよ出発の準備が整った。
今回、温かく迎えてくれた管理人さん、そして同じ屋根の下で一夜を明かした二人の登山者さんたち。
 「お気をつけて」「良い山行を」
そんな短い言葉を交わし、感謝を伝えて小屋を後にする。一期一会の出会いだが、不思議な連帯感が山にはにはある。

ザックを背負い、大倉へ向けて歩き出す前にもう一度だけ山頂の広場に立ち寄った。五時を過ぎ、だんだんと周囲の雲が取れて視界がよりクリアになっている。

そこには、朝の光を浴びて一段と凛とした姿の富士山が立っていた。この光景をしっかりと目に焼き付け、僕は一泊二日の旅の後半戦、大倉への復路をスタートさせた。

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だんだんと雲も取れてきた蛭ヶ岳山頂

山頂に別れを告げ、まずは3.3キロ先の丹沢山を目指して歩き出す。

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まずは丹沢山まで3.3km

相変わらずの強風だが、そのおかげで視界を遮る雲がビュンビュンと音を立てるような速さで流れていく。目の前には滝のように流れる雲海が広がり、まるで空の上を散歩しているような、不思議な感覚に包まれる。

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雲海
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朝靄と雲が入り混じって神秘的な雰囲気

朝靄と雲が複雑に入り混じる中、ふと雲が切れた隙間に、遠く相模湾の輝きが見えた。昨日は何も見えなかったこの稜線が、実はこれほどまでに開放的な場所だったのかと、一歩ごとに新しい発見がある。

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雲が切れると遠くには相模湾が見えた

《2日目 6:42》鬼ヶ岩ノ頭

歩き始めてしばらく経ち、体がようやく暖まってきた頃、最初のポイントである鬼ヶ岩の頭に到着した。昨日下った岩場を、今度は下から見上げる形になる。こうして見るとかなりの傾斜で、なかなかの迫力だ。一般的に、こうした岩場は下りよりも登りの方が足場の確認がしやすく、精神的な負担も少ない。補助の鎖を適度につかいながら、リズム良く一気に登り返していく。一歩一歩、確実に高度を稼いでいくこの感覚。背中には心地よい朝の光を感じながら、僕は丹沢の主稜線を着実に踏みしめて進んだ。

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一番上に特徴的な三角の岩が見える

《2日目 6:42》鬼ヶ岩ノ頭

山頂付近からも見えていた、特徴的な三角の岩が目の前に迫る。ここが鬼ヶ岩のピークだ。道は大小さまざまな岩が重なり合っており、手足を使ってそれらを一つひとつクリアしていく。朝一番の身体には少しこたえるが、岩を掴むたびに意識が研ぎ澄まされていくのがわかる。

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大小様々な岩を越えていく

鬼ヶ岩を過ぎ、道は緩やかなアップダウンを繰り返す稜線歩きへと変わる。

06:46 鬼ヶ岩ノ頭 通過
06:56 棚沢ノ頭 通過

この時間帯になると、出発時の寒さが嘘のように消え、じりじりと「夏の暑さ」が戻ってきた。

薄手の防寒着を脱ぎ、再び夏の登山スタイルに戻る。山の上で感じる1〜2時間の温度変化は、下界のそれよりもずっとドラマチックだ。

美しき主稜線

暑さに汗が滲み始めるが、視界に飛び込んでくる風景がそれを忘れさせてくれる。  どこまでも続く丹沢の主稜線。  昨日は真っ白な霧に隠されていたその全貌が、今は鮮やかな緑と深い谷のコントラストを伴って、僕の目の前に横たわっている。この「山を歩いている」という実感を強くさせてくれる景色こそが、一泊二日の旅を選んだ最大の報酬かもしれない。

やがて、次のポイントである不動ノ峰の山影が見えてきた。

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美しい稜線が続く
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だんだんと暑さが戻ってきた

午前7時8分、不動ノ峰に到着。  昨日の14時40分、ここを通過した時は、強い風に煽られながら真っ白な霧の中をひたすら突き進むだけだった。しかし今、目の前には昨日見ることができなかった丹沢の深い山並みがどこまでも続いている。

「ここは、こんなに景色が広がっていたのか」

そんな当たり前のことに、今さらながら感動する。遮るもののない稜線は、歩いているだけで心が洗われるようだ。日差しはすでに強くなり始めているが、標高1,500mを越える場所を吹き抜ける風は、まだ十分に心地よい。

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緩やかなアップダウンが続く

不動ノ峰から丹沢山までの道は、今回の縦走の中でも特に展望に恵まれた、贅沢な空中散歩のハイライトだ。
アップダウンをこなしつつ、自分の影を前方に追いかけながら淡々と歩を進める。視界が良いと、目標とする山頂がはっきりと見えるため、心なしか足取りも軽く感じられる。

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遠くに富士山が見える
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今まで歩いてきた行程を一望

《2日目 9:07》再び塔ノ岳山頂

再び塔ノ岳の山頂に立った。  昨日のあの白い霧と強風が嘘のように、空は抜けるような青に染まっている。昨日リベンジを誓った通り、そこには眼下に広がる秦野の街並みと、その先に輝く相模湾のパノラマが広がっていた。ここからの眺望は何度見ても飽きることがない。

けれど、喜んでばかりもいられない。太陽が高くなるにつれ、気温は容赦なく上がり始めていた。

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晴天の塔ノ岳山頂
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大倉尾根から秦野の街が見える

山頂を後にし、いよいよ「バカ尾根」として知られる大倉尾根へと足を踏み入れる。

09:25 花立ノ頭(はなだてのあたま)通過
09:35 花立山荘(はなだてさんそう)到着

この頃には、急激な気温の上昇で頭が少しぼーっとしてきた。昨日の寒さが遠い昔のことのようだ。そんな限界に近い状態の僕を救ってくれたのが、花立山荘のかき氷だった。

「……生き返る」

キーンと冷えた氷が喉を通るたびに、火照った細胞が一つひとつ蘇っていくのがわかる。この夏の山行において、間違いなく最高のかき氷だった。この一杯がなければ、この後の長い下りに心が折れていたかもしれない。

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花立山荘でかき氷に救われた

《2日目 12:42》大倉登山口:バカ尾根、三時間の闘い

かき氷で英気を養い、ここからは自分との戦いだ。  標高差約一千二百メートルを一気に下る大倉尾根。その名の通り、単調で執拗な階段が延々と続く。

10:33 堀山の家(ほりやまのいえ)
10:50 堀山(ほりやま)
10:59 駒止茶屋(こまどめぢゃや)
11:38 見晴茶屋(みはらしぢゃや)
12:06 観音茶屋(かんのんぢゃや)

膝の笑いを抑えながら、点在する茶屋を一つずつパスしていく。昨日歩き始めた時の高揚感は、今や「無事に下りきる」という一点の集中力に変わっていた。

12時42分。ついに、見覚えのある大倉登山口へと辿り着いた。

ザックを下ろし、アスファルトの熱気を感じた瞬間、ようやく一泊二日の旅が終わったことを実感した。  前半の猛暑、後半の霧と風、そして最後に待っていた朝焼けの富士山。

塔ノ岳から羨望の目で眺めていたあの頂・蛭ヶ岳は、もはや「遠い場所」ではなく、自分の足跡を刻んだ「思い出の場所」になった。 足腰には確かな痛みがあるけれど、それさえも心地よい旅の余韻だ。丹沢という山の、厳しさと優しさの両方に触れた、実に贅沢な二日間だった。

塔ノ岳登山のメジャールート大倉尾根を登るはこちら

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