《03:18》ザイテングラート
涸沢小屋を過ぎると、いよいよ岩の急登が始まる。ヘッドライトの狭い照射範囲だけを頼りに、ゴツゴツとした岩に手をかけ、足をかける。「ザイテングラート」。
ふと顔を上げると、前後の斜面に点々と動く光が見えた。 他の登山者たちのヘッドライトだ。 音のない闇の中で、同じ頂を目指す見知らぬ誰かの光が連なっている。冷たい風の中で、熊鈴がチリンと鳴った。
《05:27》穂高岳山荘:燃える東の空
標高を上げるにつれ、空気の密度が変わっていく。岩場にしがみつくようにして登り続けること約二時間。ようやく稜線に建つ穂高岳山荘へと辿り着いた。

その瞬間、視界が開けた。東の空が、驚くほど赤く燃え始めていた。雲海が幾重にも重なり、その境界線から太陽の光で包み込む。昨日までの雨が嘘のような、圧倒的神々しいまでの朝日に目がくらむ。ただ、変わりゆく空の色を身体いっぱいに吸い込んだ。
穂高岳山荘の喫茶室で、淹れたてのホットコーヒーを啜っていた。窓の外では、東の空が赤く燃え上がり、幾重にも重なった雲海が朝日を受けて色に変えている。この圧倒的な光の誕生を眺めながら、僕はヘルメットの顎紐を締め直し、グローブをはめた。

奥穂高への岩壁登攀
山荘を出ると、目の前には奥穂高岳への垂直に近い岩壁が、壁のように聳え立っていた。僕はそのとっつきに手をかけた。ゴツゴツとした岩の感触が、グローブ越しに伝わってくる。岩にしがみつき、一歩ずつ高度を稼いでいく。

登攀の途中、太陽が登るにつれ、山岳パノラマは刻一刻とその表情を変えていく。朝日に照らされた岩肌は金色に輝き、谷底の雲海は青白く沈み込んでいく。この光の変化を楽しみながら、僕は岩にしがみつき続けた。

《06:52》奥穂高岳登頂
不意に、チラホラと細かい雪が舞い始めた。朝日に輝く小雪。どうりで寒いわけだ。グローブをしていても、指先が強張る。3,000メートルの世界は、光と同時に、容赦ない冷たさも僕にぶつけてくる。
稜線をさらに進む。遠くには、尖った槍ヶ岳が雲の中から顔を出していた。右手には、ジャンダルムの鋭利な刃渡りのような造形が、睨みつけている。
最後の岩場を越え、ついに奥穂高岳の山頂へと辿り着いた。標高3,190メートル。日本の屋根の頂だ。身体は冷え切り、指先は感覚を失いかけている。だが、僕の身体の底には、ここまで登り切ったという達成感で熱くなる。

山頂でのひとときを終え、穂高岳山荘へと下り始める。雲の切れ間から、まるで天からの梯子のように光の束が差し込み、荒々しい山肌をスポットライトのように照らし出す。

眼下には、山荘の赤い屋根が小さく見えてきた。あそこまで下れば、ひとまずの安堵が待っている。浮き石に足を掬われないよう、慎重に、けれど確実な足取りで降りる。

穂高岳山荘から涸沢方面へと、支稜線を慎重に下り始める。標高を下げるにつれ、白い雲が太陽によって切り裂かれ始めた。ふと視線を上げれば、雲の切れ間から差し込む光の束が、荒々しい山肌をスポットライトのように照らし出す。

さらに高度を下げていくと、霧は一気に晴れ渡り、頭上には驚くほど澄んだ青空が広がった。

目の前に広がる、完璧な青の世界。涸沢野営場と、その背後に聳える穂高の岩壁。

ザイテングラートの岩場を一段ずつ慎重に降り、ようやく涸沢カールへと足を踏み入れた。3,000メートルの稜線ではあんなに荒れていた天候が、嘘のように落ち着き始めている。 見上げれば、ガスが猛烈な勢いで流れ去り、その向こう側から突き抜けるような青空が顔を出した。カールの道は、ゴツゴツとした岩の堆積だ。眼下には、涸沢ヒュッテの赤い屋根と、僕が昨夜を過ごした野営場が見えてきた。

野営場へと下るにつれ、空の青さはさらにその深みを増していった。ふと見やれば、昨夜凍えた身体を救ってくれた涸沢小屋が、岩壁の懐に絶妙な塩梅で収まっている。まるで、最初からそこにあるべき岩の一部であるかのように、完璧な配置でそこに佇んでいた。強い陽光が岩肌を照らし、昨日までの雨で湿った空気を一気に吸い上げていく。立ちのぼる湿気の向こうに、僕のテントが見えた。ようやく、自分の「場所」へと辿り着いた。 ザックを岩の上に放り出し、登山靴を脱ぐ。

フリーズドライのドライカレーにお湯を注ぐ。 出来上がったそれを一口運ぶと、思わず声が出た。
「……美味い。」
スパイシーな香りが鼻腔を突き抜け、絶妙な辛さと米の食感が、疲れ切った身体にダイレクトに響く。 お湯を注いだだけのフリーズドライだと侮っていたが、この絶景の中で食うドライカレーは僕を幸福にしてくれた。身体の奥底からエネルギーが湧き上がってくる。 陽光に温められながら、最後の一粒まで惜しむように平らげると、僕は濡れたテントを丸め、重いザックを再び背負い直した。

下りは、重力が背中を押してくれる。だが、北アルプスの空は気まぐれだ。あれほど輝いていた青空は、高度を下げるにつれてどこかへ消え去り、灰色の雲がじわじわと山を侵食し始めた。
本谷橋を越え、再び岩壁を横目に見ながら足を運ぶ。登りの時のあの凄まじい息切れが嘘のように、足取りは軽い。けれど、身体に蓄積された疲労は、一段ごとに膝へと衝撃を伝えてくる。
《13:11》横尾
横尾まで戻ってくると、辺りはすっかり厚い雲に覆われていた。

ここからが、この旅の最後にして最大の試練だ。横尾から河童橋までの約十キロ。標高差のほとんどない、平坦で、少し退屈な林道歩きが続く。景色は美しいはずなのだがこの平坦な砂利道がやけに長く感じられる。
《16:31》河童橋
ようやく、河童橋へと辿り着いた。見上げれば、穂高の峰々は、再び雲に覆われつつあった。橋の上から、エメラルドグリーンの梓川を眺め、この二日間を振り返る。昨夜の冷たい雨、涸沢小屋で啜った熱いモツ煮、ヘッドライトの光一つで彷徨ったのザイテングラートの緊張感、奥穂高山頂で見た燃えるような朝焼け。そして、あの驚くほど美味かったドライカレー。
身体はボロボロだ。膝は笑い、肩はザックが食い込んでいる。

僕は最後にもう一度、頂を仰ぎ見て、観光客でごった変えしているバス停へと歩き出した。
| 日時・地点 | 行動・ステータス | 備忘録 |
| 【1日目】 | ||
| 06:30 さわんど | 駐車場〜シャトルバス | 駐車料金700円。シャトルバスは登山客で満杯 |
| 07:49 河童橋 | 登山開始。曇天の出発 | 山は雲に隠れているが、梓川のエメラルドは美しい |
| 09:30 徳沢 | 通過・緑のオアシス | 芝生の上でテントがチラホラ |
| 10:32 横尾 | 昼食:焼肉丼 | 甘辛い肉が絶品 |
| 12:00 本谷橋 | 吊り橋通過・急登開始 | 揺れる橋の下、清冽な水の流れ。ここからが本格的な登山 |
| 13:56 涸沢 | 到着・テント設営 | 突然の雨と冷気。涸沢小屋のモツ煮とお湯割りが、凍えた身体を救ってくれた |
| 【2日目】 | ||
| 02:30 テント | 起床・天候チェック | 雨は上がった。アタックザックを準備 |
| 03:18 涸沢発 | 出発・ザイテングラート | ヘッドライトの光の列が頂へと続いている |
| 05:27 穂高岳山荘 | 稜線到着・日の出待ち | 燃える空、雲海。淹れたてのコーヒーが染み渡る。 |
| 06:52 奥穂高岳 | 登頂(3,190m) | 舞い散る小雪とジャンダルム、遠くに聳える槍ヶ岳 |
| 11:00 涸沢 | 下山・テント撤収 | 至福のドライカレー |
| 13:11 横尾 | 通過・長い帰路の始まり | 空は再び灰色。ここからの平坦な道は、少々退屈 |
| 16:31 河童橋 | 下山完了 | 穂高はまた雲に覆われた。ボロボロの身体だが、心は軽い |
焼岳を上高地から登る。強風の山頂で見えた赤い屋根と、白骨温泉・乳白色の湯
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